レゴを選ぶ子どもたち

     
 
HIV感染により行き場のなくなってしまった女性やHIV/AIDS孤児たちが生活しています。ここで暮らす子どもたちは以前、親がAIDS患者であるということで、学校への入学を拒否されていましたが、今日では仏教系の公立学校に通っているそうです。風船動物やレゴ、折り紙などして子どもたちと遊びました。訪問者も多いからでしょうか、子どもたちはメンバーにも人懐っこかったです。中には遊びの輪には入らず、寂しそうに外を眺めている子どももいました。  
 
 
 


ストリートチルドレンが立ち寄れるよう
活動しているNGOでお話を聞きました

 
 
ストリートチルドレンたちが花売りや買春など日常取っている行動を見るために、チェンマイのナイトバザールの通りから一本裏に入った路地を見学しました。ストリートチルドレンが集まる場所や、NGO団体(グルムアーサー)が声をかける場所など周りましたが、この日はあいにくの雨で、子どもたちもあまり出歩いてない様子でした。  
 
   
多くのストリートチルドレンがいたというターペー門では警察から逃れられるとの理由で以前子どもたちが壁の中に入って寝泊りや麻薬の回し打ちをしていたそうです。現在では子どもたちが入れないように鍵がかけられているとのことでした。暑い国での狭い壁の中の生活は、想像しただけで苛酷です。子どもたちの生活の一部を垣間見たおもいでした。フィールドワークが終わったのも深夜と、この日は非常に長い一日となりました。  
   


ご寄付のキルトは子どもたちに

   
 
 
HIV/AIDS孤児になった子どもたちを支援しているNGOで、今年2月に開所したばかりです。現在は病院や学校と協力して子どもたちが進学、就職できるように活動しています。また、HIV感染者の家庭を訪問するなど、一度携わったら最後まで支援を行うことをポリシーとしてこれからの活動、受け入れが期待されます。  
 
   
 


新しくできたバンコクの地下鉄

 
いよいよチェンマイを発ち、バンコクに向かいました。チェンマイの空港ではトラブル発生。なんと、5名のメンバーのチケットが予約されていないとのことで、同じ飛行機に乗れない事態になりそうでしたが、英語が得意なメンバーとコーディネーターの方がデスクで粘り強く交渉してくれたおかげで、無事にメンバー全員で飛行機に乗れました。ここで、コーディネーターをしてくれた方々とはお別れしました。  
 
   
『再会』
バンコクの空港では現在青年海外協力隊でタイに来ているAWCメンバーが出迎えてくれました。メンバーの中には、AWCでボランティアを一緒にしていたオサさんと久しぶりに会って、再会の喜びを分かち合っていました。空港からホテルまでの道のりはバンコク特有の大渋滞と旅も終わりに近づいていたこともあり、メンバーも車内で疲れて爆睡していました。
 


様々な具材でボリューム満点です

   
 
バンコクでは、有名なタイスキのお店に行きました。翌日が母の日で祝日ということもあり、お店はとても混んでいました。タイスキはダシ汁に野菜、魚介類、海老や肉団子を入れて煮込みます。ちょっと辛めのタレにつけて食べますが、みんなおいしそうに食べていました。そして極めつけが、具がなくなった鍋にご飯と卵をいれておじやを作ってもらうのですが、これが絶品です!
 
   
 


観光客で賑わうパッポン通り

 
 
バンコクで歓楽街として有名なパッポン通りを見学しました。日本人観光客が多いお店の中にも実際入り、女性たちが雛壇に座って男性客の指名を待っている光景を見ました。タイの売買春の現状を見て、混乱して言葉を失っているメンバーもいました。(今回は付き添いがいたために、見学できましたが、通常は見学できない所です)  
 
 
『複雑な気持ち』
お店のお客さんのほとんどが日本人や西洋人などの外国人であると聞き、恥ずかしい気持ちになりました。性産業があるからお客さんが来る、また、お客さんがいるから性産業が発展するのか、考え出すと止まらなくなります。
 


スラムではこのように
比較的立派な家が多く
立ち並ぶ

   
 
タイ政府により区画整理されたコミュニティーで、スラムに住んでいた人々がこの地に移り住みました。バンコクYMCA管理している集会所で母の日の式典に参加させてもらいました。優秀なお母さん、子どもたちの候補者たちが前に出てきて、みんなで投票して1〜3位を決定するとのことでした。投票の結果のプレゼンターもメンバーが順番にさせてもらいました。その後、コミュニティーの中を案内してもらいましたが、思っていたよりも立派な建物が多く、それらは政府からお金を借りて建てたそうです。自分たちにできる仕事(花輪作りなど)をして生活していました。
 
 
   
 


元気なこどもたち

 
  HIV/AIDS孤児たちが共同生活を通して自立していくためのYMCAによる児童福祉施設です。(ここではどの子どもがHIVに感染しているかを公表せず、差別のないように対応しています。そのため、どの子どもが出血するようなけがをしても、直接血液に触らず、手袋をして処置にあたるそうです。)  
 
 


ご寄付のキルトと一緒に

   
渋滞のため予定より少々遅れて着いたのですが、子どもたちは今か今かと窓から顔を出して私たちを待ってくれていました。集会場兼食堂の棟、子どもたちの泊まっている棟など非常に綺麗な建物が、広い敷地に建っていました。スタッフが不足しているとのことで、収容人数の半分ほどの子どもたちしか受け入れ態勢が整っていないのとことでした。
 
 
『元気なこどもたち』
ここでは子どもたちが「上を向いて歩こう」「大きな歌」を日本語で歌ってくれましたが、とても上手で、メンバーも自然と一緒に歌っていました。タイ語の歌や、踊りを披露してくれて、踊り好きなメンバーも楽しく体を動かしていました。その後は風船をしたり、歌を歌ったり、追いかけっこしたり、折り紙したりとパワフルな子どもたちにさすがの元気メンバーも引けをとっていました。
     
 
   
空港で夕飯を終え、いよいよ成田に向かって出発です。バンコクではお世話になったコーディネーターのオサさん、メーランカムボランティアスタッフとお別れです。今までたくさんいたメンバーの数も成田に向かう人数は少なくなってしまい、少々寂しい気持ちになりました。スタディツアーを振り返ると、どのメンバーも積極的に子どもたちと交流して、楽しんでいましたが、その反面、タイが抱える様々な深刻な社会問題について考え、自分たちはこれからどうしたらよいのかを考えるよい機会となりました。
 
 
 
様々な施設の様々な子どもたちと触れ合いました。個々の施設の子どもたちにはその施設で生活しているため「色」があることは確かでした。しかし、その中にもちろん個性というものがぎらぎらしていました。その事実を受け、私は心のどこかに施設に入っている子どもたちの性格や行動に対する先入観があったのではないかと感じました。「ストリートチルドレン」であるから、子どもたちの性格はこうだとか、「エイズ孤児」であるから子どもたちはこういう行動すると決めつけることがいかに危険であり、人権侵害につながるということも認識しました。    
   
私が強く印象に残ったことは、子どもたちの目の輝きです。両親をAIDSや麻薬で失った子ども、買春の被害に遭った子ども、ストリートチルドレン、山岳民族の子どもたちの目は真っ直ぐで、澄んでいる瞳でした。辛いことや苦しいことが山ほどあるはずなのに、それでも楽しそうに生きている。私は子どもたちから「生きる力」をもらいました。
   
  昨日までは全く知らなかった人と友達になり、その友達の住んでいるところにはどのような問題があるのかを知ることにより、問題意識が高まるのだと考えられました。これにより、都市部の子どもたちと山岳民族の子どもたちの交流が深まり、その子どもたちが成長することにより、国の問題がある一部の人たちだけでなく、国全体で考えることにつながるのではないかと思いました。  
     
   
日本に帰ってきて、いざ何が出来るかと考えると、今は何も出来ない自分に気がついてしまいました。しかし、今の私にも一つだけ出来ることがあります。それはタイに行き、この身をもって感じたことをただの思い出とせず、思い続けることです。自分の日常と照らし合わせて、あの時の出来事を非日常としないこと。あちらの時間もこちらの時間も同じように動いていること。そうしてこれらのことを忘れずに私がタイで経験したことをできるだけ多くの人に伝えていきたいです。  
 
 
エイズで親を亡くした子どもたちが暮らす施設をいくつか訪れました。中には日本人の方がボランティアとして働いているところもあり、皆さんの活躍ぶりに驚きました。子どもたちはみんな元気で、笑顔が輝いていました。しかし、笑顔の影には私たちには見せない辛さや苦労があるのだろうなと思いました。私たちが施設を去るとき、笑顔で手を振る子どもたちを見て、人との別れに慣れていると感じ、悲しくなりました。子どもたちは小さな心で大切な人との辛い別れや悲しみを経験しているのだと感じました。
 
今回のツアーではHIV/AIDSについても深く考えることがありました。日本ではHIVポジティブが先進国の中では珍しく増加傾向にあると国際社会から非難されています。現在のタイは進んだ性教育などの効果もあって今後は減っていくだろうと考えられていますが、現在でもAIDS患者はとてもたくさんいます。彼らの服用している薬はコピー薬であり、種類も日本より少ないのでAIDS患者の闘病生活は日本のAIDS患者より過酷なものなのです。
 
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